西洋占星術はどのように扱われてきたか(4)

略奪と貿易とルネサンス

西暦610年にメッカの中年商人が神の啓示を受けたらしい。全知全能のアッラーに自らをささげよと説くその啓示は中東とアフリカ大陸北部を席巻しイベリア半島をも飲み込んだ。当時いずれの地域にもキリスト教が浸透していたので、キリスト教社会としては失地挽回したいところであった。好意的かつざっくり考えるとこの欲求がイベリア半島の再征服と十字軍運動を生み出した。その一方でイスラム教徒はヨーロッパ社会の主要な貿易相手の一人になった。

宗教戦争と貿易は西洋キリスト教社会にかつて彼らが捨ててしまったギリシア・ローマの叡智を再発見する機会を与えた。1085年にイスラム学問の一大中心地であったトレドの町が降伏した。その図書館にある膨大な書物をどうするかが問題となり、翻訳事業が開始された(今度は焼かなかったわけだ)。また、イスラム世界からの輸入品には書物も含まれていた。これらの翻訳活動は最終的にルネサンスを生み出すのだが、これは占星術にとって願ってもない追い風であった。

占星術の発展と躍進

イスラム教も厳格な一神教なので占いは基本的に禁止されている。しかし、占星術は天文学と深く結びついていたので占いというよりも天文学の一分野として扱われていた。だからイスラムの天文学を学ぶことは同時に占星術を受けいることを意味した。中世から近世のエリートは天文学を含む7つの学問を勉強させられたが、この天文学は主にイスラム天文学を翻訳したものであり、当然一緒に占星術も勉強することになる。占星術、大出世である。

占星術の用途は古代ローマと同じだった。医師は診療するときに占星術をおこなって治療方針を決めたし、軍事外交政策や結婚相手の選定などで人々は占星術を参考にした。何か大事なことを決めるときに占い師に相談したくなる。そんな時に学問として受け入れられている占星術は権威が高かった。17世紀の医学部では、依然として占星術が必修あるいは選択科目として講義されていた。しかし、自然科学は着実に成長しており、占星術の権威を切り崩し始める。

ルネサンスとそれ以降の占星術

地動説が出てくると、プトレマイオスの天動説が怪しくなる。だったら地動説でホロスコープを作ればいい気もするが、占星術自体の基盤がプトレマイオスの知見にあるのだから逃げ場がない。16-17世紀に活躍した数学者で天文学者のケプラーは占星術は天文学という”賢いが貧しい母”に仕送りする”愚かな娘”だといった。当時の天文学者たちはそんな風に考えていたのだろう。

それでは占星術が衰えたかというとそんなことはない。占星術は相変わらず大きな役割を担っていた。ガリレオ・ガリレイが”それでも地球は動いている”と実際に言った証拠はないが、彼が占星術で金を稼いでいたのは事実である。ケプラーも同様で、アスペクトを改良してこの孝行娘を少しでも賢くしようとしている。ユグノー戦争のさなかを生きたフランス王妃がノストラダムスに頼ったのも有名だ。しかし、羽振りのいい占星術も17世紀末にある種の終わりを迎えることになる。

現実的学問としての占星術の終わり

17世紀半ばのヨーロッパを見てみよう。ドイツは30年戦争で疲れ果てて内戦する力もなくなった。フランスはリシュリューがユグノーたちを黙らせて安定した。ウェストファリア条約で国際的秩序の枠組みもできた。大陸には一応の安定がもたらされたことが分かる。一方でイギリスは不安定になっていく。30年戦争に介入しているうちに財政難に陥り、絶対王政にこだわる王家と議会の対立が激化したからだ。

この社会不安に引き寄せられるように占星術の中心はフランスからイギリスに移っていく。宗教改革でカトリックと袂を分かったイギリス政府は占いに嫌悪感はなく、むしろ世論誘導に役立てるために政府公認の占星術師を置いてしまう。これで占星術が発達しないわけがなく、1647年には古典占星術の集大成ともいえる「クリスチャンアストロロジー」がウィリアム・リリーによって刊行される。当時のイギリスには4つの特徴があり、それらが占星術を追い詰めていく。

第一に占いの受け手が不特定多数であった。占いというとお客が占い師を雇って対面で占ってもらうのが普通で、占いの内容は公表されない。顧客が王様になれば占星術師は国政に影響を与えるが、占いそのものはプライベートなやり取りで終始する。しかし、イギリスでは占いの結果を書いたパンフレットを大衆に配るか販売して世論を操作しようとしていたから誰がどんな占いをしたかがオープンになる。

第二に統計学が台頭していた。1662年にジョン・グラントはNatural and Political Observations Made upon the Bills of Mortalityを公表したが、これはロンドンの死亡統計を分析した報告書である。人類は少数の実例から受けた印象や検証しようのない噂に左右されない客観的なデータを使えるようになり始めていた。

第三に自然科学が今まで以上に発展していた。自然科学の内容が発展していただけでなく、科学者を取り巻く環境もそれまで以上に良好になっていた。天文学者それ自体の収入は低くても数学的知識を使えばもっと収入のいい仕事につけたし、科学者として活躍したことそれ自体に社会が報いてくれるようになった。

第四に啓蒙思想が台頭していた。世界には最終的な正解を保証する法則があって、私たちにはこれにたどり着くことができる観察能力と思考能力があって、だから私たちが今知っている範囲で理詰めで考えて正しいというのならその方針を採択すればいいというのだ。これが自然科学を社会に適応し、教会の特権を廃止し、君主や貴族を打倒するのに大変役立っていた。

先述のウィリアム・リリーはピューリタン革命では議会派のお抱え占星術師として活躍し、大いに名をはせた。彼ら占星術師の社会的影響力は過去にないほど強力になった。それまでは顧客の陰で隠れていたのに今やイギリス中が注目する有名人である。彼はロンドン大火などを予言したとされているが、王党派からは人々を操る詐欺師だと非難されていた。彼の予言は議会派に都合のいいものばかりだったからだ。

一方で占星術の正しさを示すことに情熱を傾けた人間もいた。1665年にイギリスでペストが大流行したが、John Gadburyがこれの拡大と終息を占星術で予想しようとしたのだ。彼は過去のホロスコープを研究し、火星と金星の運行を見れば今回の流行がいつ収束するか予測できると分析した。彼は自分の分析と予想をパンフレットにして出版したが、これが大外れしてしまった。その後も彼は奮闘したが占星術の正しさを数字で示すことはできなかった。

そして1687年にプリンキピアが刊行された。これは占星術にとって論理的な意味での致命傷になった。惑星の運行はいくつかの物理法則ですべて説明できることを説くこの本を読めば、惑星が地上の私たちに微弱な引力以外の影響を与えるとはなさそうだと想像がつくからだ。そして著者のニュートンには占星術を弁護する必要はなかった。彼の収入源は数学教授職の給料と造幣局長官の給料と印税であり、十分裕福だったからだ。

結果の恣意性が糾弾され、客観的な成果を出せず、論理的に反駁されてしまった占星術は本当に無益なのだろうか?頼む前に占い師の人となりを知っておけば偏った占いは避けることができるし、Gadburyが占いに失敗したとしても彼のやり方が悪かっただけかもしれないし、プリンキピアで占星術に引導を渡すにはこの世で発生する相互作用は引力以外ないという前提条件が必要だ。これらの反論を思いつきもさせなかったのは啓蒙思想とそれの華々しい成功だ。

占星術師は物笑いの種になってしまった。しかし、占星術はしぶとかった。啓蒙主義者が無知蒙昧と揶揄する大衆の間ではいまだ人気があったし、啓蒙思想の最大の売りだった物質的発展が色あせてくると新しいファン集団を獲得するようになるのだ。

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