意味を考えたら負けだろう
今更ブログを始めることにした。いまやAIがウェブサイトや論文といったコンテンツを学習してその結果を提供する時代なので、今更ぼんやりしたコンテンツを発信してもどうなるわけでもない。しかし、日記をつける習慣がない私などにとって、こんな方法で日々思ったことを書き溜めていくのも面白いのではないかと思えてきた。
技術は進歩している。本当に。
私たちは進歩してきたし、今もしている。この点はまずは単純に”たいしたもんだね、よかったよかった”と考えるしかない。問題点を唱えてもそういう流れを止めたり修正したりすることはたいていの場合できないから。そういう発想は被害者になるのを避けようと工夫するときに使うしかない。その”進歩”が論評に値するものになった時点でそれは既に人類の一定の期待に応えていて、結果それ相応の支持者を集めている。そして外野が指摘する”問題”などは当の推進者たちは初めから知っていることが多く、知っていてもやれば(”社会”とか”人類”とかのたまうがとどのつまりは)自分の利益になると思っているからやっているとしか思えない(この辺りは進歩の担い手になったことがないのでよくわからないが)。でなければ彼らも恐ろしくて新しい何かを旗振りして広めていくなんてとてもできないだろう。好むと好まざるにかかわらず我々の技術は進歩してきたし、これからもしていく。そして、それは基本的に私たちを大いに豊かにしてくれる。めでたし。
だけど本当に大事なことは変わっていない。
私たちの進歩は基本的に技術、つまり道具の分野でなされている。文化といってもそれは人間性を表出する技術だし、思想といっても世界から得た情報を解釈する技術だ。そして、道具の進歩に対してそれを使う目的の部分はほとんど変わっていない。たとえば、人間は今も昔も富と称賛を求め、しかも悪いことに他人と比べて一喜一憂してしまう。人類の技術はかなりの進歩を遂げているから、食料を大量に生産できる。その気になれば無償で配給できそうなものだが、だからと言ってそんなことはしない。ダイエットに時間とお金を使うほど食べているのに。
昔のやり方の価値
本質は何も変わっていないが、それを満たす方法はむしろ現代のほうがあからさまなったと感じるのは私だけだろうか。そう。洗練されたけどよりあからさまに感じられるのだ。人間の物質的欲望をより直接的に満たす技術と暴力をより効率的に管理できる技術があるのだからこれは当然の帰結だ。一方で先人たちはこの変わらない部分に我々とは異なる彼らなりの方法で対応していたし、その方法論には学ぶべきところがあると考えるのは自然だ。昔の人々の考え方ややり方はトータルでいえば現代のそれに及ばないと思う。実際、現代のほうが病気はよく治るし、犯罪捜査だって冤罪はぐっと少ないはずだ。ただ、別のアプローチがあるのなら一応見ておいて損はないだろう。実際、西洋医学で最新の知見が見つかった時に漢方薬をみるとそれは既に織り込み済みだったというのはよくある話だ。
古い文化を継承するのは大事。だけどそれを適当にいじってもいいはず。
古い技術や文化をそのまま継承することには大きな意味があると思う。古いやり方に私たちが認識・提供しえない価値があるのなら、方法を変えてしまうことでその価値が損なわれてしまうリスクがどうしても残ってしまう。しかも、一度変わってしまったらその価値はもう戻ってこない。しかし、古いものをそのまま継承する人がちゃんといるならばその一方で同じものを適当にいじってみるのもまた面白い。継承する方はちゃんとした人たちにお願いして、別の人は無責任にいじらせてもらう。他人の迷惑にならない範囲ならそんなのもありだと思う。私は根が不真面目なので、後者をやらせてもらおうと思う。